やっとこの映画を観に行く事が出来た。観た事を後悔する程に打ちのめされたのでここに記す。
ヴィム・ヴェンダース監督の作品は『ベルリン・天使の詩』や『パリ、テキサス』を観ていて好きなのだが、この映画を映画ファンに勧めるつもりはない。アンゼルム・キーファーや現代美術に興味が無ければ見る必要は無いだろう。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』同様ドキュメンタリーに近いこの映画は、題材となるアンゼルム・キーファーがどの様な芸術家なのかが描かれていた。特に重要なのはキーファー作品のスケール感だと思う。巨大な作品群は美術館にはとても収まりきらないから、映画で見せる必要があったのだろう。
アンゼルム・キーファーは僕が現在最も憧れる芸術家だ。存在は勿論昔から知っていたが、意識するようになったのは割と最近だと思う。初めて画集を買ったのもつい数年前。恐らく作品を直に観た事は無いと思う。作品が巨大な事も数年前にInstagramで知った。現在最も憧れる芸術家だと言いながらその全貌がまるで掴めていないので、この映画をとても楽しみにしていた。
映画の冒頭、キーファーのスタジオが俯瞰から映し出される。無数の作品が置かれた無人の倉庫の様な空間。そこに自転車に乗ったキーファー本人が画面右下から現れた。その姿が、想像していたサイズから遠くかけ離れ、あまりに小さかったので思わず「えっ、、」と声が出た。キーファーが小男なのではない。作品が、スタジオが、余りにもデカ過ぎたのだ。キーファーの作品が巨大だということを知ってはいたが、そのスケール感は僕の脳内イメージを遥かに上回っていた。
映画が進むにつれ、キーファーの作品は、それを取り巻く空間にまで及んでいる事がわかった。美術館に収まりきらないスケール感は、建築を越え、街を丸ごと作っているようだった。キーファーは建築のカテゴリーにアートを持ち込んでいるのではなく、建築をも飲み込んで都市規模のアートを作りまくっているのだ。一人の芸術家がディズニーランドをいくつも作っている様な規模感。渡り歩く巨大スタジオはそのまま巨大な作品として残されていく。
キーファーが天才だという事に疑う余地は無いが、天才故にこの様な異次元の巨大芸術家が突如生まれた訳ではない。若い頃からの成果が倍々に膨れ上がって、巨額の金が現在のキーファーにまで肥大化させたのだ。村上隆然り、有名な現代アーティストはスタッフを抱え、アート工場化して一人の人間が限りある時間の中で生み出せる物量の限界を越える。ガウディが死後も職人に作品を作らせる様に、現代アートのビッグネームは時間の制約から解放されている。社会が、金が、これ程までに巨大な天才芸術家を創り上げたのだ。この次元での勝負が、現代アートのヒエラルキーの頂上で行われている。小さなアトリエで日々ひとりコツコツ制作しているのとは、まるっきり次元が違うのだ。
巨大な芸術家の圧倒的なスケールにショックを受けて、放心状態のまま川越スカラ座を後にした。週末の小江戸は観光客で賑わい、強烈な直射日光にジリジリ脳天を焼かれるが体温が上がらない。末端の芸術家には決して手の届く事のない頂点の巨大なエネルギーにコテンパンにやられてしまった。
僕は今、11月の個展に向けて大作を制作している。現在取り組んでいるシリーズ『RESIN 死と再生』では最大となる。今のアトリエ環境ではこれが最大というサイズであり、現在の自分のあらゆる限界を明示している。
アンゼルム・キーファーの圧倒的なスケールを前に自分の矮小さを突き付けられる。比較しても意味がない。芸術家として立っているステージがまるっきり違う。だからそもそも比較対象じゃない。そんな事は分かっているんだけど。。端くれでも同じ芸術家なのだから無視出来ない。
惨めな気持ちと共に、今後もっと大きな大作を作りたいという欲求がふつふつと湧いてくる。20代30代は、大きな展覧会に合わせて売れもしない大作を描いていたが、みんな処分した。当時は売れなくても大作を描く事が潔いと思っていたが、今は少し大人になった。
ここから先は、処分する様な事無く大作を作る環境を開拓するより他に道がない。キャリアを覆すことは出来ないし、50歳じゃ遅いかもしれないが。
先ずは現時点での限界を叩き出そう。
そんな事を思いながら手を動かしていると、自分の作品もまんざらでは無いと思う。なかなか良いじゃないか。
そうやって再び、良くも悪くも盲目的に、根拠の無い自信と共に制作を続けよう。
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